一
将軍薨去の知らせを、和宮は六日後の七月二十五日に受け取った。
ちょうどその前日から、家茂の病気平癒を心願として、塩断ちをはじめたところだった。
だが、それもすぐに空しくなってしまった。
「去る二十日卯の刻、上さまはご所労重なりまして、大坂城にて薨去あさばされました」
将軍付き筆頭御年寄の滝山が、唇を噛みしめながら告げる。その目には、無念の涙が浮かんでいた。
実際、家茂が事切れたのは、十九日の八ツ(午後二時)頃であったが、十九が〝重苦〟に通じるとして避けられたのか、江戸表には二十日と伝えられたのだった。
「……う、そ……」
報告を聞いた和宮は、一気に血の気が引いて、膝から床に崩れ落ちた。
「宮さまっ!」
意識が薄れて、侍女たちの声も遠く聞こえる。
(いやよ、大樹さまっ。こんなのってない……!)
早すぎる死は、完全に心因性のものだっただろう。とことんまで痛めつけられた精神が、肉体を蝕んだのだ。今日の敵が明日の友となるような混沌とした時代に、家茂は誠実すぎたのだ。
だが――だからこそ、和宮は彼を愛した。愛さずにはいられなかった。
武士といえども、十五代中、陣中で没したのは、家茂ただ一人だけである。居城以外の場所で客死した将軍も――。
だから、想像だにしなかった。出陣した将軍が、そのまま帰ってこないなんて――。
その死因は脚気衝心による病死と伝えられたが、真実のほどは定かではない。
(遠く離れた、私の知らない町で逝ってしまった……)
――最期はどうだったのだろう。お苦しみになられたのだろうか。自分のことを少しでも思い出してくれただろうか……。
臨終の枕辺を遠慮したのか、続報は要領を得ず、和宮には何一つはっきりとわからなかった。
ただ、正式に後継者が決められていなかったことで、将軍継嗣問題が宙に浮いているため、その死は当分のあいだ伏せられることになった。
本来ならば、将軍家といえども、嗣子がなければ、お家断絶である。
しかし国中が動揺している今このときに、二百六十年間の長きにわたって日本を治めてきた徳川宗家がつぶれたりすれば、大混乱に陥るのは目に見えていた。よって、幕閣は必死に主君の死を隠蔽した。
将軍の生前に、田安亀之助という内意はあったが、弱冠四歳の幼児に、この荒波の中で舵が取れるはずもない。ましてや今は、幕府の命運をかけて仕掛けた征長戦にも敗れつつある状況である。
そこで老中たちは京都に足繫く通い、かつて先代と将軍職を争った禁裏守衛総督に十五代就任を求めたが、どうしてか慶喜は頑として聞き入れなかった。
というわけで、公にはまだ十四代将軍は生きていることになっている。そのため、いまだ故郷に帰ることもかなわぬ主君の亡骸を納めた霊柩を、お側去らずだった小姓頭――野村丹後守と諏訪安房守の二人が、昼夜を分かたず護っていた。
紀州時代、将軍の幼年期から近侍した野村は思う。
(もし将軍になられず、紀伊藩主のままだったら、このような困難に直面することもなく、ご病気にもなられず、温和な良君と仰がれ、つつがなくお過ごしであったろうに……)
と――。
尽きぬ悲哀に、涙の乾く間もなかった。
悲しい訃報から一夜明けた翌二十六日、和宮は、家茂の生母である実成院に請われて、髪先の一端を切って大坂へ送り、自筆の阿弥陀仏の名号を添えて、夫の棺に納めさせた。
薨去より一か月後の八月二十日、幕府は正式に将軍の喪を発し、御尊骸は軍艦にて江戸へ戻り、徳川宗家の菩提寺である増上寺に葬られることを公表した。
九月三日、二度と目を開けぬ十四代将軍を乗せたダンバートン号が大坂を出港した。わずか三日の強行軍で品川沖に到着すると、御浜御殿を経て、六日の夕方、江戸城西の丸に入った。一年四か月ぶりの物言わぬ帰城である。
「ただいま、平岡丹波どのよりお言付がございました」
進発の大行列に付き随い、このたびも主君の遺骸とともに戻ってきた将軍の側近、若年寄平岡丹波守の口上を、滝山が伝えた。
和宮が夫の遺品として受け取った九点のうちの一つ、西陣織の一反は、将軍が宮へのお土産に買い求めたものである、と――。
その伝言に、和宮の双眸はたちまち涙であふれた。
おぼえている……。凱旋の際のお土産に――と、自分が家茂にねだったのだった。最後の睦み合いとなってしまったあの夜のことを、忘れるはずもない。
和宮は受け取った萱草色の織物を、しっかと抱きしめた。胸が詰まって、老女に返す言葉も出ない。
こらえきれなくなって居間を駆け出ると、寝室の上段に伏してむせび泣いた。
空蝉の唐織ごろも なにかせむ
綾も錦も 君ありてこそ
顔一面を涙で濡らしながら、絞り出すようにしてつぶやいた。
(この織物をいったいどうしろというの? きれいなお衣装だって、褒めてくれるあなたがいてこそのものではありませんか。あなたがいなければ、何の甲斐もない。あなたのために、着飾って美しくなりたいと思ったのですから――)
和宮の歌に誰もが心打たれ、一人として声をかけられる者はなかった。
ひどいひどいと、百万べん言ってやりたい。
自分を置き去りにして逝ってしまった家茂――。けっして手の届かぬところへ……しかも何の断りもなく。
あれが今生の別れだと知っていたら、行かせやしなかった。無理を言ってでも引き止めた。大坂で死ぬとわかっていたら、何としてもついていった。後から追いかけた。
(帰ってくるって言ったじゃない! 勝って、必ず帰ってくると……)
今なお鮮明によみがえらせることのできるその笑顔、声、ぬくもり――。腕に加えられた握力の強さも、熱い唇の感触も、脳裡に刻まれた鮮やかな記憶だけでなく、軀の隅々が彼を憶えている。
この脳髄も、精神も、肉体も、自分のすべては家茂に通じてしまっている――いったいどうしてくれるというのだ……これからどうすればいい?
「――〝三瀬川 世のしがらみのなかりせば、君諸共に渡らましものを〟」
和宮は泣いた。ただ声もなく泣いた。最愛の人の形見となってしまった反物を胸にひしと抱きしめて――。
その激しく涙するさまを見て、女官たちは、己の主人がどれほど深くその伴侶たる将軍を愛していたかをはじめて知り、改めてもらい泣きするのだった。
九月二十三日、十四代将軍の悲しい葬送が行われた。
葬儀は徳川将軍家の菩提寺である増上寺本堂で執り行われるが、慣例によって夫人の出席は認められない。
そのため、和宮は最愛の人と最後のお別れをするべく、天璋院とともに中奥の休息の間に出向いた。
白無垢の喪服姿である。
大奥以外の御殿を知らない和宮は、はじめて目にする夫の私室を興味深く見回した。
違い棚の上の白磁の置物や香道具――今もそこかしこに、彼の気配が残されているような気がした。
家茂が眠る棺は、普段の居間であった上段の間に北枕で安置されていた。下段には、野村丹後守をはじめとする御小姓衆が控えている。
断髪姿であった。旧主の菩提を弔うため、先日特に願い出て仏門に入ったのだ。
対面は許されなかった。遺体は大坂で桐材の内棺に納められ、江戸に戻ってきてから、さらに檜材の中棺と外棺で覆われている。
その間、一度も開かれぬままだった。埋葬の際には、その上をまた銅棺で包むことになっている。
焼香を終えると、和宮は持ってきた唐錦の織物を、檜の棺の上に掛けた。はからずも遺品となってしまった、家茂の京土産の西陣織である。
着るとても 今は甲斐なき からごろも
綾もにしきも 君ありてこそ
そして涙で曇った両眼を懸命に見開き、永遠に帰らぬ愛しい人の門出を見送った。
和宮の切ない和歌とともに増上寺に納められたその織物は、やがて家茂供養のための袈裟に仕立てられた。その名を――「空蝉の袈裟」という。
その後和宮は、家茂の公式命日となった八月二十日から百日目――百箇日の法要が営まれた十二月九日に、薙髪の式を行った。
美しい長い黒髪が、肩のあたりでばっさりと切られた。けれど、誰よりもそれをいとおしんでくれた人がいない今、和宮にはいささかの未練もない。
無理やり嫁がされ、それでも幸せを手に入れたと思ったのも束の間、二十一歳の若さで哀しい未亡人となってしまった薄幸の皇女は、この日新たに「静寛院宮」となった。
二
寄せては返す波のようにくりかえされる朝夕を、「静寛院宮」こと和宮は、ただ無感動に過ごしていた。
身分を超え、自分も超えて愛した運命の相手に死なれて、半身を失ったかのような悲嘆と喪失感に、いまだ心は虚脱したままである。
そんな抜け殻のような日々を送っている前将軍の未亡人に、さらなる追い打ちをかける事件が起こった。
兄であり庇護者であり――否、父親を知らない和宮にとって、事実上の父親であった孝明天皇が崩御したのである。悲劇に彩られた年の暮れも押し迫った、十二月二十五日のことだった。
訃報を受けた和宮の傷心は、並大抵のものではない。
家茂とともに過ごした幸せな――けれど、今となっては切ないばかりの思い出だけが残るこの江戸城――。
いくら待ちつづけても愛しい人が帰ることのない家に居つづけるのはつらく悲しく、また新将軍――十五代慶喜は、彼女の意志に反して積極的に開国政策をとり、この頃は丸の内まで異人が徘徊するようになっていたので、いっそのこと京都へ帰ろうかと思っていた矢先だった。
身を寄せ合って生きてきた母、この世の誰よりも愛した夫、父親代わりの兄――次々とかけがえのない人たちを喪って、和宮はもう何もかもがどうでもよくなった。
――死にたい……死んでしまいたい。自分も彼らのもとへ行きたい……。
死の誘惑が和宮に取り憑き、死への願望がその毎日を支配していた。
だが、時代が彼女を放ってはおかなかった。
親幕派だった孝明天皇の死によって、倒幕の機運は一気に高まり、政治的に追いつめられた十五代将軍は、起死回生をねらって、政権を朝廷に返上した。世にいう〈大政奉還〉である。
この歴史的出来事は、一部始終、京都の二条城にて行われた。事前に何の相談もなく、事後報告を受けただけの江戸城中の人々は、あまりの暴挙に言葉もない。
将軍に就任してほんの一年弱、しかもずっと京都に居っぱなしで、一度も主人として江戸城に入ったことのない新将軍が、神君家康公以来二百六十余年、徳川家が連綿として受け継いできた政権を、あっさり放棄してしまったのだ。誰もが途方に暮れるしかなかった。
これにて、二世紀半にわたる江戸幕府の歴史は幕を閉じた――家茂が命を削って守ろうとした将軍家は、失われたのである。
さらに、事態はそれだけでは済まなかった。
大政が奉還されると、引き続き〈王政復古の大号令〉が発布され、摂関職、将軍、守護職などの官職が廃された。
王政の名目のもと、薩長藩士を中心とする新政府が誕生し、前将軍徳川慶喜は官位を止められ、所領を朝廷に返還するよう求められた。
徳川方にとっては、絶対に聞き入れられぬ要求である。そんな無理難題を呑めば、旧将軍家の家臣――旗本八万騎が即日路頭に迷ってしまう。
ここ数年、幕府のために粉骨砕身してきた会津や桑名の藩兵たちも、死力を尽くして守ってきた京洛や禁門の警護役を敵である薩摩や長州に取って代わられ、到底納得がいかない。
両藩兵および幕臣たちは激昂し、怒りに駆られるまま前将軍に決起を唱えた。
憤慨が、彼らの目を曇らせていた。もはや誰もが冷静に時勢を見つめることができなくなっていた。
そして半狂乱の兵たちの怒気にあてられたように、慶喜は開戦を決意した。
みずからしたためた〈討薩の表〉を掲げ、
「君側の奸は薩摩なりっ。よって薩摩を除く!」
と大号令し、大いに士気を鼓舞する。慶喜もまた、目まぐるしい動きの中で、大局を見失った一人だった。
慶応四年正月三日、京と大坂のあいだ――鳥羽・伏見において、戦いの火蓋が切って落とされた。〈戊辰戦争〉の幕開けである。
旧幕府軍一万五千、かたや薩長中心の新政府軍は五千――数に勝る旧幕軍が断然有利なはずだった。
にもかかわらず、幕兵たちは苦戦を強いられた。征長戦のときと同じく、ひとえに装備の差が原因である。薩長が最新のミニェール銃やゲベル銃などを用意していたのに対し、旧幕軍は相変わらず火縄銃主体だった。
自軍の旗色が悪くなり、なおかつ相手陣営に官軍の証である錦の御旗がひるがえるやいなや、旧幕軍の総帥である慶喜は朝敵の汚名を恐れて臆した。
「関東で再起を図る」と偽って会津・桑名両藩主らを説き伏せると、夜闇に紛れて大坂城を脱出する。
突然軍艦で戻ってきた主君に、江戸の家臣は一同に唖然とした。
自分たちに無断で政権を放棄し、幕府を売り渡した男が、今また彼のために戦っている兵を置き去りにして逃亡してきたのである。
総大将――しかも歴戦の名将、神君家康公の血を引く江戸将軍が、麾下の兵を見捨てて逃げ帰ってくるなど、ありうべからざることだった。「情けない」「嘆かわしい」のひと言で表せるような衝撃ではない。
しかし帰ってきてしまったものは、もはや仕方がなかった。事実を取り消すことは不可能である。
すっかり憔悴しきった前将軍を交えて、旧幕府首脳陣は連日連夜、今後の対応について喧々囂々の議論をたたかわせた。
抗戦か恭順か――どちらを選択するかで揉めに揉めた。
抗戦派は、所詮裏切り者の薩長兵の集まりであるエセ官軍相手に、一戦も交えずして屈したりすれば、武家として恥ずべきことだと主張した。小栗上野介、榎本和泉守ら大半の〝侍〟としての意見である。
恭順派は、諸外国が日本に触手を伸ばしてきている今、内部分裂などして付け入る隙を与えてはならない――、武士の名分のために民を巻き込み、国を荒廃させてはならないと説いた。勝安房守や大久保越中守ら、いわゆる〝政治家〟の論理である。
恭順派は少数ではあったが、業を煮やした勝に、「誇りと生命のどちらを取るのかっ」と迫られた慶喜が後者と答えたため、結論は恭順と決まった。
決定後、軍艦奉行から海軍奉行並、さらに陸軍総裁に格上げされた勝安房守が中心となり、徳川家は和議の道を模索しはじめた。昔の誼で、西郷ら新政府の要人に顔がきく勝以外に、旧幕臣で和平交渉を可能とする者はいなかった。
そして前将軍徳川慶喜は、絶対恭順の意を示すべく、城を出て上野の寛永寺に謹慎することになった。
禁裏守衛総督時代から行動を共にし、大坂から夜逃げしてくるときにも同行させた松平容保・定敬兄弟には、伺候を禁じて江戸退去を命じ、身辺から突き放した。
戦わぬと決めた以上、主戦派の会津や桑名の藩主がそばをうろついていては都合が悪い。しかも京都守護職として攘夷派を徹底的に弾圧してきた容保は、新政府の一翼を担う長州勢がもっとも目の敵とし、この機に積年の恨みを晴らそうとして躍起になっている人物である。とても身近には置いておけなかった。
「宗家と盛衰存亡をともにすべし」という藩祖の遺訓に従って忠誠を誓い、身命をなげうって尽くしてきた宗家当主に見捨てられた容保は、あまりのことに魂もぬけたようになった。
大坂城の大広間で、傷ついた将兵たちを前に、十五代将軍は言った。
「この地敗れるとも関東あり。関東敗れるとも水戸あり。けっして途中でやめるなっ」
と――。
その力強い言葉を信じて、断腸の思いで藩兵を置き去りにし、江戸に退却する将軍に随ってきた自分を、変わり身の早い慶喜は、その舌の根も乾かぬうちに切り捨てたのだ。
(前上さまだったら、けっしてこのようにむごいことはなさらなかったっ……!)
理不尽な――と言うのも空しい残酷すぎる仕打ちに、今さらながら徳高き先代が偲ばれてならない。
今後どうすればよいのか――すぐには頭も回らなかった。
それゆえ、容保は家臣に勧められるまま、とりあえず故郷の会津に帰ることにした。
かねてより一貫して、体裁や体面も含めて、自分を守ることにソツがない十五代将軍は、大坂より帰府ののち、先代・先々代の御台所のところにも事情説明に赴いていた。
先代将軍正室の静寛院宮は天皇家の姫、先々代将軍正室の天璋院は薩摩藩主島津家の姫である。慶喜はこの姻戚関係にも一縷の望みを託し、二人に朝廷への謝罪と家名存続、助命などの嘆願の斡旋を依頼した。
前将軍が大坂城を放棄して畿内を去ったあと、新政府はその勢いに乗じて、天皇の名において、賊臣徳川慶喜に対する追討令を発した。これにて徳川宗家は、名実共に朝敵となったのである。
和宮にとって、ついに婚家と生家が両軍の旗印となって争う戦いが始まってしまった。
夫である家茂亡き今、彼女は徳川から離れて、生家に帰ることも許された。
だが同じ立場の姑同様、窮状に瀕した婚家を見捨てることは、とてもできなかった。
数々の辛苦の果てに――幾多の障害を乗り越えて、自分と家茂はわかりあい、愛し合った。はじめはぎくしゃくしていた天璋院方とのわだかまりもとけて、たとえ城の外は多難であっても、それに立ち向かうべく結束した将軍家の家庭内は、おのおのが分をわきまえて処していたため、円満と言ってよい関係だったのである。
その幸せな家庭を守り通すために、家茂は死力を尽くし、そして力尽き、命を落としたのだ。彼が殉じた家がなくなってしまうのは耐えられなかった。
徳川追討軍はすでに都を出発し、東海道、東山道、北陸道の三方から江戸をめざして進軍していると聞く。軍の最高責任者である征討大総督は有栖川宮熾仁親王、さらに東海道先鋒鎮撫使総督は橋本実梁とのことだった。和宮にしてみれば、熾仁は元婚約者であり、実梁は母方の従兄弟である。少女時代の数少ない知己が大兵を率いて自分のもとに向かってくるという、きわめて残酷な事態だった。
それでも新帝の叔母――静寛院宮親子内親王は、朝敵のために命を賭して働いた。ただ亡夫への愛ゆえに――。
身を挺して婚家の盾となり、自分は徳川宗家と存亡を共にし、存続の嘆願が聞き入れられないのならば死も辞さないとの覚悟をはっきり示して、官軍の江戸攻撃中止を訴えた。
かくして、その献身は報われた。
旧幕軍代表・勝安房守と新政府軍代表・西郷吉之助の会談にて、江戸総攻撃は中止とされ、西郷が大総督府の面々を説得したことにより、慶喜も死罪一等を宥され、徳川家の存続が認められたのだった。
処分決定後の徳川宗家は、朝命に従って居城を明け渡し、当主慶喜は水戸にて謹慎蟄居、家督は先代家茂から後嗣に指名されていた田安亀之助が相続することになった。
亀之助は、徳川御三卿の一人、田安慶頼の三男である。宗家十六代となるや、名を「家達」と改めた。
また、天領として全国にわたっていた実質四百万石の徳川家の所領は、七十万石にまで削減され、新当主家達は、初代家康の旧領であるかつての駿府――静岡に移るよう命じられた。
しかし今までの五分の一以下の家禄では、旧幕臣――徳川家臣団のすべてを養っていくことは到底不可能である。この朝命は、元旗本・御家人の大半にとって、死活問題だった。
自分たちの明日を閉ざすような新政府の非常な決定に、主戦派の憤懣は最高潮に達した。一戦も交えることなく、武士の意地を見せることもできぬまま、主家累代の城を明け渡した――そして今また減知・転封の屈辱に、臍を噛む思いである。
このまま黙って引き下がるのは、あまりにも無念だった。こちらがおとなしくしているからといって、どんどん図に乗る薩長の勝手にさせてなるものかと思う。
怒髪天を衝いた彼らは、それぞれに徒党を組んで官軍に抵抗した。一橋家家臣・渋沢成一郎と元幕臣・天野八郎率いる彰義隊、新選組局長・近藤勇の甲陽鎮撫隊、歩兵奉行・大鳥圭介の伝習隊、その他、衝鋒隊、草風隊などが、続々と反撃の狼煙を上げる。
市中暴動の火の粉は、江戸城を出て清水屋敷に退去していた和宮の身辺にも及び、周囲には険悪な流言飛語がうずまいていた。
開城の詳しい経緯を知らされずじまいの幕臣の中には、皇女である和宮が、実家へのとりなしと引きかえに、前将軍に恭順を強いて新政府の言いなりにしたと思い込み、彼女のことを恨む者も少なくなかったのである。
物騒な空気に、和宮はすっかり気が重くなり、この江戸の地から逃げ出したくなった。側仕えの女官たちも怯えて、毎日泣き暮らしている。自分一人のせいで、侍女たちを恐ろしい目に遭わせていることも、やりきれなかった。
そのため、和宮は意を決し、徳川家の静岡移封を見届けたら、都に戻ることに決めた。
三
武装蜂起した旧幕臣各隊は、勢いにのる官軍部隊にあっけなく鎮圧され、大半が一矢報いることすらできずに壊滅した。上野で開戦した彰義隊が善戦したほうだったが、彼らも近代兵器「アームストロング砲」の前には、ひとたまりもなかった。
命からがら逃れた者たちは江戸を脱走し、さらなる戦いの場を求めて東国へと落ちていく。
そのころ会津では、藩主容保を中心に、徹底抗戦の構えを見せていた。
容保は約六年ぶりに国許に戻ってくると、自分の首を取ろうと気炎を上げている薩長軍を迎え撃つべく、戦の準備をはじめた。
実のところ、容保自身は宗家の慶喜が恭順を示した以上、新政府の軍門に降ることもやぶさかではなかった。
しかし、自分が守護職を拝命して以来、さんざん幕府と朝廷のために奔走し、それにもかかわらず賊軍とされた藩兵たちの義憤を抑えることは、もはや不可能だった。
「何ゆえに、我らが朝敵なのでございますかっ⁉ 殿や桑名どのが追討されねばならぬ理由など、何一つございませんっ。それでも薩長が会津を許す気がないというのであれば、我らにも最後まで戦わせてくださいませっ!」
藩士たちは、迷っている主君に涙ながらに訴えた。
故郷を遠く離れた西の都で、困難な任務に誠心誠意尽くしながらも、朝廷に裏切られ、あまつさえ藩祖以来忠心を捧げてきた将軍にも裏切られたのである。
あの、命をかけて働いた苦しい日々は、いったい何だったのか――。
天誅や度重なる戦闘の中で、命を落としていった仲間たちも大勢いる。それらがすべて無になるというのか――そんなことは絶対に許せなかったし、けっして受け入れられなかった。
己の信念を貫くために、これまでの生きざまを肯定するために、彼らは断固闘わなければならなかった。
家臣たちの気持ちが痛いほどに察せられた容保は、彼らの望みどおりにさせることにした。また自分自身も、このまま終わるのは口惜しかった。
自分はけっして朝敵ではないという思いは、容保とて同じである。多大な信頼を寄せてくれた先帝から賜った御宸翰や御製は、今もわが傍らにあった。
容保は将軍と同じくらい、孝明天皇を尊崇していた。〝天皇〟ではなく、孝明個人という存在を――。それゆえ、その唯一の皇子である明治天皇の朝廷に反旗をひるがえすような真似はしたくない。
だがその一方で、朝敵の汚名を着せられて黙っているのも、やるせなく耐えがたかった。代々尚武の家柄を誇ってきた会津の藩主として、先祖に申し訳が立たないという思いに苛まれ、その悔しさが武将としての矜持とともに、いつも心の片隅で疼いていた。
会津の君臣にとって、厚顔にも官軍を名乗り、侵攻してくる薩長軍との一戦は、おのが正義のための聖なる戦いであった。
鳥羽・伏見に端を発した旧幕軍と新政府軍の戦は、江戸を通り過ぎて、舞台を会津に移した。
前将軍・徳川慶喜を片づけた今、新政府軍の次なる目標は元京都守護職――松平容保である。
特に、薩摩とともに軍の主力を成す長州勢は、都でさんざん煮え湯を飲まされた会津藩主を血祭りに上げねば、どうにも気が済まなかった。志なかばで斃れていった同志たちへの餞のためにも――。
この情勢に、会津の近隣諸藩は同盟を結んで、会津を支援する動きに出た。
長年国許を離れて京都に詰め、朝廷のために働いてきた謹直な松平肥後守の処遇に同情し、会津藩の赦免、藩主の助命、東征中止を、仙台・米沢などの藩が連名で請う。
その申し出を、容保に恨み骨髄の薩長連合軍は、聞く耳持たず突っぱねた。
無罪放免などありえない。最大の敵――徳川慶喜の首を討ち取ることができずに終わった兵士たちの遺恨は、今やすべて肥後守へと向けられている。
嘆願を拒否されると、奥羽諸藩は立ち上がった。ここで引き下がり、東北の地を逆賊薩長の好きにさせるなど、言語道断である。
東北諸藩から見れば、武門でありながら幕府を裏切った彼らこそ賊であった。国難にかこつけて朝廷と手を結び、太平の世を破って、この内乱を招いた西国諸藩への憎しみは深い。
かくして、東北二十五藩による〈奥羽列藩同盟〉が成立し、維新史上もっとも悲劇的な会津戦争へと突入した。
東国の不穏な噂は、帰京支度を進めていた和宮の耳にも入ってきた。
閏四月に白河の関で始まった戦闘は、さらに拡大して今や会津城下に及び、およそ武家を名乗る者はみな武器を手に取って、年端のゆかぬ少年や婦女子まで参戦しているとのことだった。
(松平肥後守……)
和宮は、道を大きく違えてしまった夫の寵臣のことを思った。
きっと肥後守は、自分と家臣たち――いや、三百年間この国を支配してきた武士の、彼らが誇りとして生きてきたその心のために闘っているのだろう。
他方、もう一人の寵臣だった勝安房守は、「国家の大事の前には、武士の面目なんぞ、くそくらえっ」と言い切って、主君と徳川家と江戸の町を守ることに奔走し、主戦派に「腰砕け」「武士の風上にも置けない」と罵られながらも、しぶとく和平交渉を続けて、ついに無血開城を成し遂げた。
この維新という時代の節目にあたって、二人はまったく正反対の道を選んだ。奇しくも、かつて家茂が予言したとおり――。
どちらが正しいかなんてわからない。否、多分どちらも正しいのだろう。
国政を担い、万民の生命を預かる政治家であれば安房守が――、あくまでも士道に忠実であろうとする侍としてならば、肥後守が――。
果たして、家茂ならば何と言っただろうか……。
策を弄することを嫌い、何事にも誠実であろうとしつづけた彼は、政治家というよりは明らかに武人だった。本人が肥後守の気持ちがよく理解ると言っていたことを思えば、「もし自分が肥後と同じ立場だったら、同じことをしただろう」と答えたかもしれない。
事実、松平容保の他にも、武士であることを捨てきれず、たとえ命を失うことになろうとも、死ぬまで侍でありたいと願う男たちは少なくなかった。
江戸で官軍に屈した各隊士たち――局長・近藤勇を失った土方歳三ら新選組の残党、その他、元老中の板倉勝静や小笠原長行、容保の弟で元京都所司代の松平定敬、坂下門外の変で失脚していた安藤信正など、錚々たる面々が会津の地に集結していた。元海軍副総裁の榎本武揚も、官軍に引き渡しを拒んだ旧幕府艦隊を率いて海路かの地へ向かい、十四代将軍の臨終を看取った旧幕府の奥医師・松本良順も、城下に野戦病院を設けて傷病者の治療に尽くしていた。
彼らは、前将軍慶喜のごとく、朝敵といういわれなき汚名をかぶせられて、それに甘んじることはできなかった。雪辱に力を尽くさぬまま屈するなど、己の中に流れる血が許さない。
もはやそれは、自分だけの問題ではなかった。何もせず薩長に降ることは、これこそ正義であると信じ、三百年のあいだ家風や家訓に託して代々受け継ぎ、遵守してきた自家の武門としての精神を否定することでもあった。
戊辰の戦において、江戸が最後まで主戦場とならずに済んだのは、忠義の臣の生き見本のような容保が陸奥にいて、義戦に踏み切ったからである。
会津戦争は、徳川将軍家を主と仰いで生きてきた、すべての武士たちの心を代弁する戦いであった。会津が生贄となり、武家の意地を見せる場を提供したおかげで、江戸における武士道の暴発は免れえたのだ。
しかしながら、時はもう、彼らに味方しなかった。武士の世を作った幕府が消滅したとき、侍たちの武運もすでに尽きていたのかもしれない。
最後は一か月の籠城の末、会津藩の牙城――若松鶴ヶ城は落城した。これ以上の犠牲に耐えかねた藩主容保が、ついに決断を下して、降伏を宣言したのである。
わずか五か月間の戦闘のあいだに、戦死者の数は三千数百人にも上った。火煙に包まれた城を見て、主君に殉じようと自刃した白虎隊の若武者たち――、女の身といって非道に泣き寝入りすることをよしとせず、男さながら勇猛果敢に闘った娘子隊の女侍たち――、「足手まといになるよりは」と、集団でみずから命を絶った家老一族――。
日本初の近代市街戦争として凄惨をきわめた会津戦争は、数々の悲劇を生んだ。もちろん犠牲者の中には、多数の罪なき領民たちも含まれている。
だが、戦いはまだ終わらなかった。
会津で敗れた旧幕軍は、さらに北へと敗走し、海を渡った蝦夷地――箱館で再起を期した。