第一章 将軍と皇女
将軍と皇女
一
万延元年(一八六〇)五月――梅雨の晴れ間のひどく蒸し暑い日である。
それでも久しぶりに太陽が姿を見せたので、家茂は吹上庭園の御花壇馬場で大好きな乗馬に精を出した。
この頃の天気同様、一向に気分が晴れない。そんな鬱屈を振り切るかのように、無我夢中で馬を駆った。
「上さま! そろそろ御還御願いますっ」
「わかった!」
一緒に轡を並べていた小姓から請われると、口では応じながらも、家茂はさらに速度を上げて彼を振り切る。
最後に馬場をひとまわりすると、弱冠十五歳の若き江戸十四代将軍は、まだ物足りなく思いつつも、仕方なくその住居である江戸城本丸に帰還した。
天下の中心――征夷大将軍の居城・江戸城本丸御殿は、表向・中奥・大奥の三つに区分されている。
〈表向〉は儀式や行事に使われる公的スペースと、幕閣・諸役人の執務室、御番武士の詰所等からなる、いわゆる幕府の中央政庁で、〈中奥〉は将軍が日常生活を送り、政務をみる官邸――、そして〈大奥〉は正室をはじめとする将軍の妻子や、彼らの世話にたずさわる女中たちが住まう私邸である。
よって、たいていの場合、将軍は中奥にいる。大奥に入りびたることに至福を見いだした、一部の例外を除いては――。
その中奥の、常の居間である休息の間に家茂が戻ってくると、留守居役の者たちが一斉にひれ伏して主君を迎えた。
「お帰りなさいませ、上さま。さっそくでございますが、大和守さまがお目通り願いたいと申してきております」
その中の一人――中奥小姓の土岐大隅守が面を上げて言上する。
「汗をかいたから、先に沐浴する。戻ったら会う。それまで待つように伝えてくれ」
そう素っ気なく答えると、家茂はそのまま湯殿に足を向けた。
冷水を浴びると、心身がすっきりしてくる。脳裡に立ち込めていた霧が晴れて、頭の中が透きとおっていく気がした。
(どうせまたロクな話じゃあるまい……)
このところ老中たちが持ってくる話といえば、頭の痛くなるようなことばかりだった。今度は誰それが殺されただの、またもや西国や外国からとやかく言ってきただのと……。
そして自分の縁談――もちろん政略結婚である。
汗を流すと、さっぱりとした体とは裏腹に、陰鬱な気持ちのまま、家茂は応接室である御座の間へと出向いた。
・背丈――年齢相応にして中背
・肌の色――大変色白い
・あばた――一つも無し
・顔――長からず丸からず、普通
・口――至って小さい
・鼻――高く、鼻筋が十分に通っている
・眼――大きく鈴の形
・眉――普通の形
・手足――尋常、至って華奢
・体形――中肉
・歯並び――よく揃って良好
・耳――長く普通
「これは何だ? 大和」
上座に着くなり、さっそく「京都御事、謹んで申し上げ奉り候」で始まる奇妙な書付を見せられた家茂は、書面から目を上げると、文を持参した男に不審そうに訊ねた。
「は。宮さまに関する、京都からの報告でございます。先代の澄心院さまのようなことがあっては困りますので」
手紙を持ってきた男――徳川幕府の最高職である〈老中〉の首座(筆頭)、久世大和守が平にかしこまって答える。
ちなみに「澄心院」とは、前将軍の二番目の夫人のことで、生来虚弱体質だったのか、成長不良で身の丈が三尺ほどしかなく、嫁いでわずか半年ほどであっけなく病死した哀れな姫君だった。
家茂は書状を巻き戻しつつ、大きなため息をついた。
「それはご苦労なことだな。だが、たとえどんな娘であっても、皇女であれば、幕府はそれでかまわないのだろう?」
「いえ、そんなことは……」
将軍に図星をさされ、馬鹿正直にも言葉に詰まってしまった久世は、額を畳にこすりつけるようにして、いっそう深く頭を下げた。
その不器用な反応に、
「弁解するな。別にその方を責めているわけではない」
と、思わず家茂は苦笑を浮かべる。
現在、幕府では今上帝――孝明天皇の妹である皇女和宮を将軍夫人に迎える話が、強力に押し進められていた。そのための工作員が何人も京都に送り込まれて、天皇の降嫁勅許を獲得すべく日夜奔走している。この宮の容姿に関する調査も、そのうちの一人から送られてきたものだった。
家茂は嫁をもらう当人であるが、その辺の経緯については、あまり関心がない。考えても無駄だからだ。
この件に関しては、己の意志など、一切考慮されない。したがって、何事もなるようにしかならなかった。
だから実をいえば、半分以上どうでもいいと思っている。ひそかに愛していた娘も、自分が姫宮を正室に迎えると聞いて精神的打撃が大きかったのか頓死してしまったし、自分の結婚で「尊皇だっ!」「攘夷だっ!」という騒がしい世情が少しでも落ちついてくれるのなら、それでよかった。
氏祖家康――東照神君によって開かれた江戸幕府も、すでに二百と五十余年。世界でも稀に見る長期安定政権も、時代の流れには勝てず、近代化の波に押されるようにして、次第にほころびを見せはじめていた。経済の発展とともに封建制度が崩れて、磐石と思われた幕藩体制が行き詰まりはじめたのである。二世紀半も経てば、時は移り、人も変わる。
その主たる原因が、外患だった。
寛政四年(一七九二)のロシア使節ラクスマンの根室来航以来、日本近海に外国船が頻繁に姿を見せるようになった。
この現実に対し、二百年間鎖国政策を敷いてきた幕府は、〈異国船打払令〉を発して砲撃、あるいは交渉拒絶をもって応じたが、七年前からそうもいかなくなっていた。
嘉永六年(一八五三)、アメリカ海軍マシュー・ペリー提督率いる東インド艦隊が、江戸湾の奥深くまで進入してきたのである。
〝将軍の御膝元〟を揺るがせたこの事件は、日本列島中を震撼させた。
日本と正式に国交を開こうとして、中央政府である徳川幕府と交渉すべく故国フィルモア大統領の親書をたずさえ乗り込んできたペリー提督は、
「もし国書が受理されない場合、我々は武力をもって回答するであろう」
と、強硬な態度で幕府に臨んだ。
その言葉を裏付けるように、相模の浦賀沖に停泊した四隻の軍艦は、いずれも数十門の大砲を陸地に向けて、いつでも砲門を開けられるようにしてあった。
この〈黒船来航〉に、世間は天地がひっくりかえったような騒ぎとなった。
泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)
たった四はいで夜も眠れず
当時の将軍――十二代家慶は、そのために寿命を縮めて、「近日のこと、誠に国家の深憂なり」との言葉を遺し、まもなく他界した。
異国艦隊の威容にすっかり肝をつぶした幕府は、終始狼狽したまま、ずるずると面談に応じて、まんまと国書を押しつけられ、翌年の返答を有無を言わせず約束させられた。
この未曾有の大事件に、時の幕政主導者――老中首座の阿部正弘は、諸大名にアメリカ側の国書を回覧して、今後の対応に関する建言を募った。それと同時に、よりいっそうの国防強化――および、藩政改革を各藩に促した。
これは、幕閣以外からも広く意見を徴収することによって、幅広い層に対外的な危機感を浸透させるのがねらいであったが、反面、それまで中央政治から疎外されてきた外様大名に幕政に口を挟むきっかけを与えることにもなり、各藩の発言力を強めてしまった。その結果、十余代続いてきた徳川家と譜代大名による独裁制がぐらつきはじめたのである。
彼らは、幕府だけではこの国家の大事に対処できないとして、一様に力のある雄藩と幕府の連合政治への国政転換を主張した。
幕臣や藩士たちのレベルになると、外国船をその目で見たことのある者は、あのように巨大な軍艦を持つ国に攻撃されたら、日本などひとたまりもない、もはや勝てる勝てないの問題ではなく、逆らうことなど考えられない――と思った。しかし、その話を噂でしか知らない者や、海がなく、外国の脅威を肌で感じていない者は、そのような野蛮人たちが自国に入ってくるのを頑なに拒んだ。大別すれば、前者が開国派で、後者が鎖国派である。
とりあえず当座はしのいだが、たかだか一年ぐらいの猶予を与えられたところで、何ら事態が好転するわけがない。断れば即開戦も辞さないと脅されている幕府に、外交を拒否できるはずもなかった。
結局、約束どおり翌年もやってきたアメリカとのあいだに〈日米和親条約〉が締結され、幕府は長崎の他、新たに下田と箱館の二港を開くことを余儀なくされた。
いったん開港すると、異人たちが大手を振って入国しはじめ、港には居留地、江戸には領事館や公使館が誕生した。また貿易によって外国製品が流入し、国内原料が買い占められたせいで、都市部は深刻な物価高に陥った。
そんな憂うべき有り様に、このまま外国の言いなりに開国策を進めて、神国日本が蛮夷によって穢されることを恐れた憂国の志士たちは、武力で外国人を追い払う「攘夷」を唱えはじめた。旧来の鎖国派たちもこれに同調する。
一方、京都においても、このような重大事を天皇に無断で決めた幕府に対し、取り巻きである公家たちの不満が噴出していた。天皇を日本国の主と主張する勤皇派も、声高に幕政を批判した。いわゆる〝尊皇〟思想である。
以後、国政を論じる者たちのあいだでは、種々の政治思想が入り乱れるようになった
開国派と鎖国攘夷派――。鎖国攘夷派は、天皇が開国に反対の立場にあるため、尊皇派と結びついて尊皇攘夷――略して「尊攘派」となり、そして朝廷寄りの尊皇派が鎖国攘夷派と結束したため、幕府を重視する「佐幕派」は、おのずと開国派と同一視された。
だが、世の中そう単純なものではない。〝尊皇開国派〟もいれば〝佐幕攘夷派〟もいる。強硬論を唱える過激派もいれば、日和見主義とも思われる穏健派もいる。あるいは、政治上の思惑のために、本心とは異なる思想の仮面をつけて行動している者たちも、大勢いた。
それというのも、時を同じくして、〈将軍継嗣問題〉が持ち上がっていたからである。
家慶の後を継いだ十三代家定は、病弱で体質的に欠陥があり、後嗣を得る見込みがなかった。そこで、次代の将軍職をめぐって、熾烈な争いがくり広げられたのだった。
後嗣となる将軍世子の第一候補には、まず御三卿一橋家の当主、徳川慶喜が挙げられた。
領内に海があるゆえに、出没する異国船の脅威を目のあたりにし、早くから外敵侵略の怖れを抱いて、攘夷の必要性を痛感していた御三家水戸藩主の徳川斉昭は、自藩の軍備を強化すると同時に、幕府の軍政改革を訴えてきた。
他方、慢性的な財政難から立ち直るための藩政改革に成功し、他の追随を許さない国力をつけた外様第二の大藩・薩摩の藩主、島津斉彬は、この機運に乗じて、幕府独裁の現体制を打破し、みずから中央政界へ進出することを願っていた。
そして幕府老中の阿部正弘は、外圧によって権威が揺らいでしまった幕府の屋台骨を、人心に対する影響力、改革成功に見る実績、財力のある雄藩の手を借りて立て直し、この危機を乗り越えようとしていた。
三者三様、目的はそれぞれに異なるが、ともあれ、〝幕政改革〟という思惑が一致した彼らは、その手始めとして、自分たちに都合のいい将軍候補を擁立した。それが水戸斉昭の七男――慶喜である。
この動きに、越前藩主松平慶永や、土佐藩主山内豊信らも同調した。
平時ならともかく、国事多難の折である。国内をまとめるべき幕府の権威弱体化を憂える賢明な藩主たちが、「次期将軍には、人徳・識見共に優れた、天下の人心をつなぐに足る人物を!」と迫るのは当然の成り行きだった。慶喜は幼少のころより英邁の誉れ高く、十二代将軍の覚えもめでたかった、水戸公自慢の息子である。
ちょうどそのころ、将軍家定の正室が亡くなったので、島津斉彬は江戸城内部からも裏工作を図るべく、養女の敬子をその後釜に据えて、大奥へ送り込んだ。
さらに、わからずやの幕府閣老たちを動かすため、天皇の威光を利用しようとして、薩摩や水戸が婚姻を通じた姻戚関係をたどり、朝廷を巻き込んだことから、話がややこしくなってしまった。
その権力は有名無実となって久しかったが、長い歴史の中で、皇室崇拝の精神は日本人に深く根ざし、将軍や執権、太閤など、たとえ他にこの国を統べる元首が現れようとも、揺らぐものではなかった。
ゆえに、天皇はいつのときも、国民に隠然たる影響力を持っていた。だからこそ時の権力者たちは、おのが権力を裏付ける存在として、常に帝や朝廷を利用しようとしたのである。豊臣秀吉しかり、徳川家康しかり。
その雄藩諸大名を中心とした大きな流れの前に、敢然と立ちはだかったのが、譜代大名の頭目、井伊直弼だった。
彦根藩主の十四男で、十五年余の部屋住みという苦労の末、三十六歳で三十五万石の当主となった井伊は、「幕府が二百年来続いたのは、将軍家というものの威徳であり、将軍個人の賢愚とは関係ない」という持論のもと、血統のよさを理由に、御三家紀伊家の当主、徳川慶福を将軍後嗣に推した。慶喜の場合、九代前まで遡らないと将軍家につながらない血筋であるが、慶福は同じ十一代将軍を祖父に持つ、家定の従兄弟である。
内外の難局にあたっていた阿部正弘が心労のせいか急死し、島津斉彬も志なかばにしてこの世を去ると、井伊は十七年ぶり九人目の大老に就任して、慶福を世子と決定し、将軍継嗣問題に終止符を打った。
安政五年(一八五八)六月、紀伊藩主徳川慶福は、正式に十三代将軍家定の後継者となり、「家茂」と改名し、宗家入りした。それが現十四代将軍である。
続いて井伊は、条約の勅許獲得をめざし、朝廷工作を開始した。幕府内でも「異国との条約調印という国家の大事には、勅許をとるべし」との意見が大半だったからだ。このころから、日本全体にかかわる政策の決定は、幕府の独断専行が許されず、朝廷の意向を打診することなしには進まなくなっていた。
しかしこの運動は、異人を禽獣のように嫌う孝明天皇の猛烈な反対にあって、失敗に終わった。
とはいえ、当時、国際情勢は逼迫していた。米国のみならず、隣国・清を平らげた英仏までもが、すでに次の侵略のターゲットとして、日本に向かっていたのである。
世界最強の英国艦隊が到着すれば、現時点でアメリカが提案してきている日米条約より、さらに不利な条約を強要されるのは目に見えていた。その前にアメリカとの調印を済ませておけば、二番煎じのイギリスは、立場上その内容に準ずるしかない。
苦境に陥った井伊は、「けっして相手に戦争の口実を与えてはならない」という信念のもと、無勅許のまま条約締結を敢行した。
今上――孝明天皇は、言わずと知れた攘夷論者である。再三の幕府の条約勅許奏請も許さなかった上に、幕府の改造と一橋慶喜の擁立を支持した密勅を、慶喜の実家である水戸藩にあてて下すという、昨今の天皇にはない積極的政治介入もしていた。それゆえ、その勅諚も無視して、開港を認める条約を調印した井伊の行為は、完全に違勅行為だった。
反井伊派の大名たちが次々に登城し、大老の違勅調印を責めた。先頭を切ったのは、渦中の一橋刑部卿慶喜である。
だがその軽挙は、慶喜および彼を将軍に推す一橋派の命取りとなった。
相続問題の紛争を避けるため、徳川宗家の直系が途絶えた場合に、将軍候補者を出す家門として創設された〈御三卿〉(田安・一橋・清水の三家)は、本来政治とは無縁である。よって、慶喜が大老である井伊を面責するのは、明らかに慣例違反だった。
長年の慣例を破られ、これ以上幕藩体制が揺らぐのを危惧した井伊は、頭の上のうるさいハエたちを追い払う決意を固めた。
〈安政の大獄〉である。
井伊を非難する一橋派大名の他、初代家康が公布した禁中並公家諸法度に違反して幕政に口を挟んできた京の公家衆、朝廷からの密勅を返上するようにとの幕命を無視した水戸藩などが、国政を攪乱する政治犯として、徹底的に弾圧された。
処罰が終わり、反対派が鳴りをひそめたところで、次に井伊は、にわかに悪化した朝幕関係を修復するため、将軍と皇女の婚姻を画策した。天皇家と将軍家が縁戚になることによって、公家と武家――〝公武〟の宥和をはかろうとしたのである。
当然のことながら、峻烈をきわめた安政の大獄のせいで、反幕の機運はいっそうのこと高まっていた。
「公武一和」は、尊攘派の拠り所となっている天皇を自陣に取り込むことで彼らを鎮静し、なおかつ皇女を人質に取って、朝廷の動きを牽制することが主目的だった。
ところが、その強引な政策は、ついに過激尊攘派たちの堪忍袋の緒を切るところとなり、幕府の意図に反して、開府以来の大事件を引き起こす羽目になってしまった。
今年三月――春には珍しい大雪に見舞われた、上巳の節句。
大老・井伊掃部頭は、登城途中の桜田門外において尊攘過激派の水戸浪士らの手にかかり、絶命した。のちの世にいう〈桜田門外の変〉である。
最高権力者が白昼堂々と殺されるという、いまだかつてない不祥事は、黒船来航以降、屋台骨がぐらついていた幕府に、さらなる追い打ちをかけ、幕権の失墜を公に知らしめることになった。
訃報に接した老中以下幕閣は危機意識を高め、何としても皇女降嫁を実現させる必要に迫られた。天下の人心を安心させ、大老暗殺によって地に落ちた幕権を回復するためには、もはや朝廷の権威を利用するしかない――まさに虎の威を借る方法である。
すなわち、当初は朝廷を制御する目的から計画された縁組だったが、井伊の横死以後は、反幕運動を緩和するための緊急対策へと転化したのだった。
家茂は元通りに書簡を折りたたむと、側に控えている小姓に渡し、目の前の老中に戻すように伝えた。
そして努めて何気ない口調で、
「それより、だいぶ難儀しているようではないか。宮さまのご様子を探るのもかまわないが、関東にお出でにならなければ、それも徒労。無駄骨に終わりそうなことは、あまりするな」
と、皇女降嫁になりふりかまわぬ幕閣を暗に諌める。
将軍が言うように、この一件は予想以上に難航していた。
三代家光以来、江戸将軍の正室である〈御台所〉は、京都の公家から迎えることが慣例化していたが、それは宮家か摂関家に限られ、直宮たる皇女の例はまだない。一時、七代家継が霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王と婚約していたことがあるが、家継が八歳で死んでしまったため、実現には至らなかった。
したがって前例がないので、幕府はこのたび綿密な下工作をし、その上で今月一日、老中連署の願書を朝廷の代表者である九条関白に送って、和宮の降嫁を申し入れたのだが、先日、「奏請はあえなく却下された」との返答が、取り次いだ京都所司代・酒井若狭守から届いていた。
その理由も具体的に挙げられていて、
一、和宮はすでに有栖川宮とのあいだに婚約があり、これを今さら破談にしては名義にもとること。
一、和宮は先帝の皇女で、しかも異腹の妹宮なので、義理合い上、天皇の思し召しのままになしえないこと。
一、和宮は幼少のこととて、関東の地は異人の来襲する土地と聞いて恐怖しているため不憫であること。
の三点である。
そう簡単には行くまいと久世らも覚悟はしていたが、正直いって、ここまで時間と労力――そして金がかかるとは思っていなかった。
「噂によると、私は相当宮さまに嫌われているらしいな。それほどまでに嫌がられているものを無理に妻に迎えて、夫婦仲がうまくいかず、朝廷との関係がよけいこじれたりしたらどうする? その方らに、男女の不仲の責任まで取れるのか?」
無言で頭を下げたままの老中に、家茂はさりげなくたたみかけた。
結婚を申し込んでいる相手が皇女である以上、最終決定を下すのは天皇であり、天皇に決断させるのは幕府である。自分の出番など皆無だった。天下の将軍とはいえ、決定権もなければ、拒否権もないのである。美人だからといって嫁にもらえるわけではなく、不細工だからといって断れるわけでもない。それゆえ、このくらいの嫌味の一つ、言ってもいいだろうと思った。
「……」
打てば響くというわけにはいかない凡夫の久世は、若い将軍の攻勢に、ただただ面を伏せて押し黙っている。
確かに、和宮が嫌がって固辞しているので、天皇が同情して強気になれぬようだと、若狭守からも聞いている。
だが、そんなことを言われても、幕府はもう後には引けない。
第一、いったん請願した縁組を、天皇の拒否にあってあきらめたとなれば、なおいっそう幕威の失墜を天下にさらすことになる。どんな手を使ってでも、この縁談は成立させなければならなかった。
幸い、まったく脈がないわけでもない。
京都からの返事には、この縁談を拒絶するからといって、天皇が幕府に対して隔心を抱いているわけではないことが、特に付言されていた。井伊大老が断行した先年の大粛清による痛手は深く、公家連中が懲りているのもまた事実なのである。そのため、この縁談拒絶によって、朝幕関係がさらに悪化し、再び弾圧を受けるようなことがあってはならないと、向こうも警戒しているようだった。朝廷側もこれ以上の幕府との離反は、けっして望んではいないのである。
「……何分、例のないことなので、宮さまも戸惑っておいでなのでしょう」
思考をめぐらし、かろうじて無難な言葉を探しあてると、久世は愛想なく答えて、そそくさと将軍御前を後にした。
二
「そのお話はお断りしたはずや!」
中庭に面した対面所から、甲高い怒号が響いた。不意の騒音に驚いたのか、木々の葉陰で羽を休めていた鳥たちが一斉に飛び立つ。
「東の代官の嫁なんぞ、絶対に御免やっ」
潤んだ双眸が、キッと目の前の相手を見据える。訴える声には哀しみと、隠しきれない怒りが交じっていた。
声の主――先帝仁孝天皇の第八皇女・和宮は、御所から内々に遣わされてきた勾当掌侍と滝対していた。
いつになく皇女らしからぬ厳しい声は、
「御上はお国のため、幕府の申し入れを受諾なさるご決意をなされました。つきましては、和宮さまにも、御降嫁をお受けになるようにとの思し召しであらせられます」
と、天皇の密使である女官が告げたせいである。
〝江戸にいる将軍の正室に――〟という話は、今に始まったことではない。ずいぶん前から持ち上がっていた。
けれど和宮は、六歳の時に、兄である今上帝――孝明天皇の思し召しによって、有栖川宮熾仁親王と婚約している。結婚の式もいよいよこの冬と決定され、その支度のため、住み馴れた母親の実家・橋本家を出て、ここ桂御所に移ってきているのだった。
本来なら、今頃は輿入れの準備に追われて、嫁ぐ日を思って心を躍らせているはずだった。
なのに――どうして今なお、こんなことに巻き込まれなければならないのか……。
そもそも、何故婚約者のいる和宮に、幕府が将軍夫人の白羽の矢を立てて降嫁を申し込んできたかというと、別に宮の人柄を見込んだというわけではなく、単に他に適当な候補者がいないからであった。
長らく近親結婚がくりかえされたせいか、総じて皇子女の生命力は弱く、無事成人する者はきわめて少なかった。和宮の兄弟も十四人いるが、現在存命しているのは、兄の天皇と姉の敏宮だけである。他に皇女といえば、今上帝の娘・寿万宮があるのみで、計三人しかいない。
当初幕府が将軍の嫁に予定していたのは、寿万宮の姉にあたる富貴宮だったが、この姫宮も生後一年経つか経たないかといううちに夭折してしまった。
残る敏宮は三十歳、寿万宮は去年生まれたばかりのほんの嬰児なので、当年とって十五歳になる将軍にふさわしい相手となると、同じ十五歳の和宮だけだった。
だが皇女の婚約は、一度許婚者を持ったら、たとえ相手が死んでしまっても二度と他家と縁組することはないというほど、神聖な行為である。破棄するなど、常識では考えられない。
にもかかわらず、天皇はこのたび幕府の降嫁内請を承諾したとのことだった。
(何でそないなことを言う? 宮は熾仁親王の妃になるんやなかったのか? 御上がそう決めたんやないのか?)
ここまで来ながら無理難題を突きつけられた和宮の心中は、理不尽な思いでいっぱいだった。
実は和宮は、すでにこの決定を、昨日伯父から聞かされて知っていた。母観行院の兄、橋本中将実麗が重い足取りで桂御所を訪れて、その青い顔を見るなり、何の用で来たのか即刻わかってしまったのだ。
「江戸には野蛮な夷狄があふれておる……そんなところへは、死んでも行きとうない」
和宮は、以前実麗から見せられた錦絵の外国人の異形を思い浮かべながら、必死の口調で訴えた。そこに描かれていたのは、髯の茶色い赤ら顔をした、とても人間とは思えぬ生き物だった。
「異人なんぞ、宮さまがご下向なされば、追々いなくなりましょう」
「……どういうことや?」
勾当掌侍は、幕府が朝廷に「皇女の降嫁を仰がないかぎり、攘夷はできない」と言ってきていることを打ち明けた。
幕府から和宮の降嫁勅許を求められた孝明天皇も、はじめはとんでもないこととして、その申し出をはねつけていた。
すると、幕府は二度目の奏請の際に、
「この縁組は、幕府が朝廷を崇敬し、かつ公武が一体の間柄であることを国の内外に明示するものであり、また外交問題の解決にとっても重大な意味を持つものである」
と力説してきた。すなわち、国が一丸となって攘夷にあたるためにも、世間の流言・虚説の類については、すみやかにその疑いを晴らし、人心を一致させなければならない――、それには公武合体を象徴する皇女の降嫁が是非とも必要である――と説いたのだった。
幕府にしてみれば、鎖国体制の維持を望む天皇の意を迎え、縁組の勅許を取りやすくするための方便にすぎなかった。
しかし、朝廷側はそうは受け取らなかった。和宮降嫁を認めれば、攘夷が可能になると考えたのだ。
そのため、「攘夷決行のためには、明白な形での公武合体が不可欠」という幕府の示唆に、孝明天皇の気持ちは大きく揺れた。
もはや自分の一存では処置しかねたので、近侍の右近衛権少将に諮問してみると、
「宮さまの御降嫁をお許しになる代わりに、幕府には外交・内政についての大事は、必ず朝廷に奏上したのち処理させるようにし、条約を破棄して攘夷実施の期限を約束させたらいかがでしょうか?」
との答えが返ってきた。おっとりとした公家らしからぬ、隙のない返事である。
それもそのはずで、このとき返答した〝右近権少将〟とは、のちに明治新政府の一翼を担うことになる、岩倉具視その人だった。このころから、宮中きっての策士の片鱗を見せていた。
岩倉の真意は、今まで朝廷は幕府が行う政治をそのまま容認するだけの脆弱な立場だったが、これを機に発言権・拒否権を得ようというものだった。そうなれば、たとえ幕府が大政委任の名義を有していようとも、政治の実権は朝廷が握ることになる。
それゆえ、殿上の公卿たちもこぞってこの意見に賛成したので、天皇は意を決し、
「降嫁が公武一和のために必要ならば、あながち不承知ではない」
との旨を幕府に通達した。ただし、野蛮な他国人が大きな顔をしている土地に和宮は恐怖し、自分も幼い宮をそんな恐ろしいところへやるのは忍びないので、外国との通商を拒絶したら縁談を進める――との条件付きで、である。
かくして、和宮の降嫁問題は、朝権を回復し、天皇の意志である攘夷を実現させるための楔として、明確に意義づけられたのだった。
これに対して、幕府は武備を充実した上で外交を拒絶するとの回答を示し、再度降嫁を迫ったが、攘夷に関する具体的な措置が明言されていないという理由で、この要請はあっけなく却下された。
三たび奏請に失敗し、後がなくなった幕府は、ついに腹を括って、「向こう十年を年限として、鎖国攘夷を実行する」と、朝廷に誓約してきたのだった。
「攘夷、攘夷言うても、宮さまの御降嫁によって、名実共に公武が一体となり、国が一つとならねば、とても外国には太刀打ちできないと、関東は言いはりますのや。だから御上は、渋々ながらも、御降嫁をご承諾なされたのどす」
つまり、和宮の降嫁は、天皇年来の希望である攘夷達成の大前提であり、この縁談を断れば、その見込みもなくなるということだった。
(攘夷のため……)
突然壮大な理由を突きつけられて、和宮の心は激しく動揺した。国家の大事の前には、個人の小事など塵に等しくも思えてくる。
(でも……)
「嫌やっ。都を離れるくらいなら、尼にでもなったほうがましや!」
とても故郷離れがたく、和宮は兄帝に直書を奉って、そのお勧めを固く辞退した。
秋風も吹きはじめた八月の半ばすぎ、関東から幕府の切り札ともいえる強力な仲介者が京に上ってきた。
元大奥上臈年寄――「姉小路」こと勝光院である。
勝光院はたいそうな辣腕家で、十二代将軍家慶の死によって一線を退くまで、奥女中の最高権力者たる〈本丸取締り〉の老女として、江戸城大奥に君臨していた。
さる天保の改革の折、大奥に贅沢品の使用や購入を禁じた水野越前守の政策に反発し、
「大奥は人間の三欲の一つ、性欲を捨てての一生奉公。そこへまた、もう一つの欲も奪うのでございますか? して、貴殿もまた、お部屋方(妻妾)の数をお減らしになられましたかえ?」
と詰め寄って、やり手の老中首座を赤面させたという逸話は、殊に有名である。将軍も表役人たちも頭が上がらず、その権勢は「春日局の再来」とうたわれるほどであった。
ちなみに、〈上臈年寄〉というのは大奥における役職名であり、〈老女〉というのは上臈年寄・御年寄・中年寄など高級奥女中に対する総称で、必ずしも実際に年をとっているわけではない。現に勝光院もまだ四十そこそこで、せいぜい中年といったところだ。
その女傑が、このたび特に選ばれて遣わされてきたのには、実は大きな理由があった。誠に都合のいいことに、勝光院は公家橋本家の出身で、実麗・観行院兄妹にとって叔母にあたるのである。
実麗や観行院を交えた何度目かの会談のあと、勝光院は和宮と二人だけで話し合うことを希望した。
心配顔を浮かべながらも、橋本家の面々が対面所を辞すると、
「可愛らしい色柄でございますな。よくお似合いですが、だいぶお袖をお通しなされたご様子」
着古した和宮の小袿に視線を落としながら、勝光院が切り出した。
「江戸のお城では何にお困りになることもございませんよ。大奥の将軍夫人は、いつもおきれいなお召し物を身にまとっておいでになります」
皇女を迎えるとなれば、それこそ幕府は面子を保つために金に糸目を付けぬであろうから、身の回りのものなど、何一つ不自由することはないだろう。間違っても、着慣れて表面が光っている袿など着せられることはないはずである。
「それがどうしたと言うんや? 宮はそんなもの、興味ない」
「そうは申されましても、みながみな、宮さまのように謙虚なわけではありますまい。将軍家に御降嫁なされば、御正室さまのご縁戚ということで幕府の援助もおのずと増え、さぞかし母君、伯父君もお楽になることでしょうな。ましてや、ご実家である天皇家は言うまでもなく――」
「……」
勝光院のあからさまな物言いに、和宮は言葉を失って、しばし沈黙したが、何とか気を取り直し、話を先に促した。
「――で、宮だけに話とは何や?」
「わりとせっかちでございますね、宮さまは。まあよろし。今日は何もかも包まず申し上げるつもりで参りました。お気に障ることもあるやもしれませぬが、何とぞご容赦くださいませ」
見るからに気の強そうな勝光院に、「お気に障ること」などと言われて、何か傷つくようなことを言われるのではないかと怯えた和宮は、無意識に心身を構えた。
「では、さっそく用件に入りましょうか。はっきり申し上げますが、宮さまはちと、わがままが過ぎるのではあらしゃいませんか?」
案の定、勝光院の言葉は、しょっぱなから若い皇女の胸をえぐった。
「み、宮が、わがままと言うんか?」
「世間がそう申しております。お側の者はみなご遠慮申し上げて、お耳に入れませんやろが」
「ど、どうして……」
「たった一人の御皇妹でありながら、国事に難儀されておられる御上の宸襟をお悩ませするとは困ったものやとか、世間知らずの姫宮さんやから、甘えが通ると思っているんやとか……。一番の問題は、帝の御威光を率先して守るべき皇女さまが、叡慮にお逆らいになり、帝威を蔑ろにしている――と噂されていることでございます。まあ、御上がお国のためと思い、考えに考えてお決めになられたことを拒絶なされば、道義にもとると思われても致し方ありますまいが――」
和宮の自分への反発心をやわらげるため、勝光院は噂であると偽ったが、実は彼女自身が心中思っていることだった。
「それに、私たち公家はこの三百年間、武家の天下のもとでつつがなきを得るよう、厳しい生活ながらも、先祖代々の家名だけは絶やさぬよう、ひたすら尽くしてまいりました。そうしてせっかく築いてきた公武の間柄に、宮さまは水を差し、その努力を無になさろうとするのでございますか? そうでなくても、このところ無頼の輩のせいで、両者の関係が気まずくなりつつあるところ。わが国が一致団結して外敵に立ち向かうためにも、今こそ結束が必要な時でございますのに」
そこで勝光院は言葉を切り、和宮の様子を見た。皇女は真っ青になって俯いている。
「宮さま。公家の娘というものは、元来縁付いたり奉公に出たりして、武家との宥和をはかり、また苦しい家計を助けてきた貴重な戦力でもあるのですよ。自分のためだけに生きることなど、到底できないのです。私も、今の宮さまよりも小さい十三の時に、住み馴れた故郷を離れ、関東に下りました。たいそう心細い思いでしたが、嫌だなんて口が裂けても申せませんでしたわ。親兄弟の言葉に反するなんて考えられなかったし、事実家計が逼迫している以上、何でそんな駄々をこねられますか」
おのが言葉が十分年若い皇女の心に響いていることを自覚しつつ、老練な元大奥取締りは、さらに峻烈にたたみかけていく。
「宮さまとて、人としての仁義は同じでございましょう。この皇国の民として、帝には忠を尽くさねばなりません。しかも当今は、宮さまにとっては、兄君にもあたられる御方。したがって、ご兄妹の義をも尽くさねばなりません。その御上が窮地に立たれているのであれば、身命をなげうってお助けするのが当然ではありませんか。それが婦道というものでございましょう?」
問われても、したたかに打ちのめされている和宮には、もう何も言えない。
「御上は、和宮さまがあまりに嫌がられるので、お可哀相にお思いになられて、寿万宮さまではどうかと幕府に掛け合っておりますが、それこそお可哀相というもの。寿万宮さまは、まだお生まれになってほんの一年余のみどり児。物心付かないうちにおん親元を離れ、お父上のご記憶もないまま、江戸でお暮らしになることになります。それがどんなにお寂しいことか、宮さまならお理解りになられますね?」
容赦のない舌鋒である。さすがは政治の裏舞台、大奥で鳴らした敏腕上臈だった。
和宮は歯を食いしばることでどうにか泣き叫ぶのをこらえていたが、その両目からは、涙が滝のように流れてやまなかった。
勝光院と二人きりで話して以来、和宮はふさぎこみ、部屋に引きこもる日々が続いた。たいてい三階の御座の間にひとり閉じこもっている。
桂御所の三階にある二間は、東山の如意ケ嶽の送り火を楽しむためにつくられた数寄屋風の部屋だったが、和宮はここから見る風景が大好きだった。前に住んでいた橋本邸にこのような洒落たものはなく、さすがは内裏焼失の際には仮御所ともなった邸宅だけある。
みなは高いところを怖がって躊躇するが、板縁に立つと、目の前の庭園と背後の東山の峰々の他に、そのあいだを蹈々と流れる鴨川までが眺められ、実に心が洗われるのだ。
残念ながら、今日は雨降りなので、和宮は室内で脇息にもたれて、朝から降りつづく雨と、その先にけぶる連山を遠くに見つつ、物思いに耽っていた。
はじめに「包まず話す」と断ったとおり、大叔母――勝光院の歯に衣着せぬ言葉は、大いに和宮の心を傷つけたが、あとから冷静になって考えてみると、すべてがいちいちもっとものような気がした。
(宮が御上をお悩ませしている……)
そう思うたび、胸が締めつけられ、キリキリと痛む。
――兄とも父とも慕う人を、自分が苦しませている……。
この重大なことに、和宮は改めて気づかされた。そして、今さらながら、その罪深さを思い知った。
なのに、天皇はそんな愚かな妹を恨むこともなく、何とかその意思を尊重しようとして、たった一人の娘まで手放そうとしているのである。
(なんて慈悲深き御上……)
そんな兄帝が、自分のためにならぬことを進んで選択するわけがなかった。だからこのたびのご決心は、よくよくのことに違いなかった。
その苦衷を思いやることもなく、おのが身のつらさだけで嫌だと言い張ってきた自分が、和宮は恥ずかしくなっていた。
確かに、自分は御上のおやさしさに甘えているのかもしれない――けれどその甘えは、けっして許されていいものではない。
もし寿万宮が降嫁することになったら、それはあまりに気の毒なことである。
まだわずか二歳の姪は、父や母を憶えてはいないだろう。父親の慈愛を受けられなかった哀しみは、遺腹の子である和宮自身が身をもって知っている。
それに、自分の身代わりとなった寿万宮が、のちのちその事実を知れば、わがままな叔母のためにわが身は犠牲になったのだと、生涯恨まれるかもしれなかった。否、自分だけならともかく、娘より妹を選んだとして、そのむごい決断を下した父帝さえも憎み、父娘のあいだに亀裂が生じるようなことにでもなったら、悔やんでも悔やみきれない。
自分の代わりに何もわからぬ乳呑み子を江戸に送ることに非も感じぬほど、和宮は鈍感な娘ではない。
だが――
それでも関東下向を決意することはできなかった。
(都を離れとうない……!)
もし将軍がここ京の都に来るというのなら、嫁に行ってもいい、婿に取ってもいい。
だけど東下はできない。生まれ故郷を離れるのは嫌だ。御上やみなと住む世界を違えたくはなかった。
言葉も、着る物も公家とは違うという、武家社会――。
怖かった。異人という未知の生物がうごめく町と、自分が生きてきた世界とは何もかもが異なるという未知の世界が……。
むせるような胸苦しさに泣きたくなってきて、和宮はふと両手で顔を覆った。すると、いつもは気にも留めぬ着物の袖が目に飛び込んでくる――袖口が切れかかっていた。
――「江戸のお城では何にお困りになることもございませんよ……御降嫁なされば、御正室さまのご縁戚ということで幕府の援助もおのずと増え、さぞかし母君、伯父君もお楽になることでしょうな。ましてや、ご実家である天皇家は言うまでもなく――」
不意に、勝光院の声が脳裡に響いた。
十三で関東に下ったという勝光院――。彼女や、その姉で水戸家に仕えた花野井のおかげで、橋本家はずいぶん経済的に助かったと聞いている。二人とも美人で働き者だったため、主人の覚えもめでたく、手当もたくさんもらえたので、それをせっせと故郷に仕送り、困窮する実家を支えたのだ。
特に勝光院――姉小路は、十二代将軍のもとで飛ぶ鳥落とす勢いの女中だったので、その影響力は絶大であり、兄実久を橋本家では前例のない権大納言までのし上げた。それでも家領二百石ではとてもやりくりできず、いまだ玄関先で家伝の膏薬「白丁散」を売って、わずかな足しにしている始末である。
けれど、貧乏なのは何も橋本家だけではない。近衛・九条・鷹司・一条・二条の五摂家とごく一部の公家以外は、どこもかしこも似たり寄ったりだった。
天皇家も例外ではなく、昨今の零落ぶりはすさまじい。帝や后のお召し物の羽二重など、以前は一度着用したら側近の公家に下賜したものだが、今は違う。万事不如意で手元が苦しい近頃では、着られるだけ着たあと、水を通して下げ渡すのだった。
――「公家の娘というものは……自分のためだけに生きることなど、到底できないのです」
頭の中で呪文のようにくりかえされる言葉に、和宮は目頭が熱くなってかなわない。
次から次へとあふれ出る涙で、すり切れた袿の袖は、たちまち見えなくなってしまった。
数日後――。
今日もひとり桂宮邸の三階で悩んでいる和宮のもとに、御所から二人の女官が遣わされてきた。
用件はわかりきっているので会いたくなかったが、兄帝の御使いでは無下に追い返すこともできないため、渋々ながらも和宮は階下に降りて客と対面した。
「ご苦労なことやな、長橋。今日は新大典侍も一緒か」
やってきたのは、勾当掌侍・高野房子と新大典侍・勧修寺徳子である。「長橋」とは勾当掌侍の別称だ。
「で、今度は二人して連れ立って、何しに来やった?」
「本日はお耳汚しに参ったのではございませぬ、宮さま。御上からお文をお預かりしてまいりました」
青白い顔をして、見るからに不機嫌そうな皇妹に、勾当掌侍が簡単な口上だけ述べると、
「そちらをよくお読みいただいて、再度ご熟考願いたいとの仰せでございます」
と、新大典侍が蒔絵の文箱を差し出した。
そして、
「宮さま。今や宮さまのおん身は、あなたさまお一人のものではあらしゃいません。御上、中将どの、観行院さまをはじめ、私たち公家のすべての進退を決するのでございます」
「お若いおん身に、誠にお気の毒さまでございますが、国家の命運があなたさまにかかっておられるのどす」
それぞれ真面目な顔つきでそれだけ言うと、二人は返事も待たずに引き上げていった
女官たちが帰ったあと、和宮は人払いをして文箱の紐を解き、天皇の御宸翰を読んだ。
〈幕府が攘夷期限を具体的に提示してきた。この縁組によって公武一和を達成し、国内の一致を果たしたら、武備を整えて七、八カ年、ないし十カ年のうちに外交を拒絶するとのことである。かくなる上は、われら朝廷も関東に誠意を見せなければならない。皇女降嫁が攘夷の条件なれば、国家のためにも幕府の請願を斥けることはできないと思っている。
これまでそなたが気の毒でいかんともしがたく、返事を引き延ばしてきたが、いつまでもこのままにしておいては、こちらの求めに応じて攘夷の年限を決めた幕府への義理が立たない。
そこで、そなたの代わりに、寿万宮を降嫁させることを考えている。朕のたった一人の皇女なので、憐憫もひとしおであるが、公武一和には代えがたく、それで納得してくれるよう、とくと話し合うつもりだ。
だが、おそらく幕府は承知すまいだろう。寿万宮はまだほんの赤子にすぎず、将軍との結婚までにあまりに時間がかかりすぎる。公武一和は火急のことであり、関東も急いでいる。寿万宮の代案が受け入れられず、かつそなたも断るとなれば致し方なく、関東に対して信義を失うことになるので、そのときには朕も覚悟を決める所存である〉
幕府の懇願と和宮の固辞との狭間に立つ孝明天皇は、すこぶる頭を悩ましていた。
国政を重いとして、いったんは降嫁を認める決断を下したが、妹宮の固い決心の前に、その決意も揺らいだ。しかも和宮は腹違いの妹なので、好まぬ縁談を無理強いすることもできかねた。
しかし降嫁条件として外交拒絶の誓約まで求め、それに対して幕府がすでに拒絶期限を奉答してきた以上、今さら和宮の不同意を理由にその請願を斥けることは、信義にかかわることだった。
和宮は、何度も何度も兄の直筆の手紙を読み返した。そのたびに、「覚悟」のところばかり文字が浮き立って見えた。
天皇の〝覚悟〟といえば、聞くまでもない――御位を降りる覚悟である。
亡き父の血を継承する唯一の帝王を、自分が譲位に追い込むのか……、たった一人の兄であり、庇護者である御上を自分が……。
帝の直系は祐宮ただ一人で、それもまだ九歳の幼児である。
自分が是といえば、すべては丸く収まるのだろうか……、自分さえ犠牲になれば……。
涙が――とめどなくあふれてくる。
御宸翰を汚すまいとして、和宮は書状を脇にやった。
「宮はん、ちょっとお邪魔してもよろしゅうどすか?」
時の経つのも忘れて途方に暮れていると、襖の向こうから乳人のお藤の声が聞こえた。
急いで和宮は目元を袖で拭い、入室を許可する。
「なんや、中将どのも一緒か。二人そろって何の用や?」
「お悲しみのところ、こんなことを言うのは酷なようで気が引けますが、悠長なことは言っておれなくなりました」
和宮の伯父――中将実麗が、案内の乳人を追い越すようにして部屋に入りながら、最前までの事情をまくしたてた。よほど切迫しているのか、諸事のんびりとした公家とも思えぬ早口である。
その内容は、先程お藤が縁者の者から、「宮さまが御降嫁しないと、近いうちに中将さまや観行院さまが処罰される」と、ひそかに耳打ちされたとのことだった。
実は、和宮側近を動揺させるために、京都所司代が仕組んだ造言だったのだが、そんなことを知る由もないお藤は、慌てて桂御所へと戻り、真っ先にこの情報を実麗に伝えたのだった。
「わしも前々から勝光院さんから言われて、まさかそんなアホなと思っとったけれど、お藤まで忠告されたとなれば、もはや知らんふりすることもできまへん。もしほんまにそないなことになれば、宮さんは孤立無援となり、日々の生活にも不自由しよることになる。ここはもう御上のお為と思い、まげてご承知くださらぬか?」
「……」
じっと話を聞く和宮は、まさに五臓六腑を引き裂かれる思いである
中将の懇願に、天皇の御宸翰――自分と御上のあいだで苦しみ、自分と幕府のあいだで苦しみ……。
心配そうなお藤の顔。そして――泣かんばかりの実麗の顔。
(もうええ。もう見とうない、これ以上宮のために人が悩むのは――)
自分が譲歩すれば、兄帝が譲位することも母や伯父が処分されることもないのだ。公武一和もなり、攘夷も叶うのだ。自分一人があきらめさえすれば……。
ならば――選ぶ道は一つしかなかった。
愛する者たちを犠牲にして確保した平和など、いったい何程のものがあろう。そんなものは、もはや平和ではない。我を貫いたところで、自分は一生後悔するとわかっている。
「――あいわかった」
ついに、和宮は降嫁を承諾し、その旨を兄帝に伝える文を書いた。
〈お文、拝見いたしました。文面通りのご決意ならば、誠に畏れ多いことでございます。
以前より申し入れましたように、このお話を辞退できぬと申されますのなら、本当に嫌々なことながら、御上のお為と思い、関東に参りましょう。ただし、その折には遠方に参ったからといって、けっしてご兄妹の縁をお切りになるようなことはなさいますな。常に杖となって、私をお支えくださいませ〉
すると、すぐに天皇から返事があった。
〈よくぞ決心してくれた。山河万里を隔てるといえど、朕は宮の杖となり、必ずそなたを扶けると誓う〉
その後、有栖川宮との婚約破棄、関東下向時期の調整などが済むと、十月九日、幕府は正式に和宮の降嫁奉請を行い、即日勅許が下りた。
年の瀬の十二月二十五日には、結納を納める〈納采の礼〉が桂御所にて行われた。
これにて皇女和宮は、名実共に将軍家茂の婚約者となり、来春三月、江戸城に入輿することが決まった。